[ここから本文内容]

越前大野城築城430年の歴史

430歴史タイトル

 430歴史_サブタイトル1

大垣

 越前大野城は亀山を利用し、外掘・内堀をめぐらし石垣を組み、天守閣を構えるという中世の山城にはみられなかった新しい方式の城でした。これは従来のような軍事上の目的ばかりでなく、政治、経済、文化の中心として、また、城主の力を示すために建てられました。城の石垣は加工しない自然石を積みあげてあります。「野面積み」といい、自然石の太い方を奥にして積みあげ隙間に詰め石をする方法で、大変丈夫にできており、古い築城の証明と言われています。

盆地風景 1575年に長近公が大野に入ったころは、町らしい所はありませんでしたが、城の工事をすすめると平行して城下町づくりに励みました。



 

芹川清水

 現在平成大野屋の西側に流れている「芹川用水」を境に、西側は武家屋敷、東側は町人屋敷とし、京都のように碁盤目状の通りを作りました。東西の通りを南から大鋸町、六間、七間、八間、石灯籠、毘沙門通りと言い、南北の通りを西側から本町、二番、三番、四番、五番、寺町通りと言います。
 
 


本願清水城下町は各所から湧き出る清水の水のめぐみを受け、生活用水路、排水路も整備されました。南北通りの一番通りから五番通りには道路中央に、寺町は片側に寄せて用水路を設け、生活・防火用水として南から北へ水を流しました。また、各屋敷の背中合わせの境には生活排水用の水路を通しました。この水路は今も残り、「背割排水」と呼ばれています。


御清水 この主な水源には、町の南東の「本願清水」が利用されました。本願清水は、「陸封型イトヨ生息地の南限」ということで、昭和9年に国の天然記念物に指定され、平成20年には、「平成の名水百選」に選定されています。昭和60年に「名水百選」に選定された「御清水」は、古くからお城や武家屋敷の生活用水として利用されてたことから、殿様清水と呼ばれることもあります。
 

七間通り

七間通り

本町、七間、五番の各通りには、美濃街道が通り、城下町の中心街として商屋が並び発展してきました。中でも七間通りには町の繁栄のために市が設けられ、現在は「七間朝市」として春分の日から大晦日まで毎朝開催され、農家のおばちゃん達が新鮮な野菜や山菜などを路上で販売しています。


寺町通り

寺町通り城下町づくりの中で、城から東側に武家屋敷、町人の町そして一番東側に寺町という町並みを配置しました。
以後、中世から近世にかけて建てられた寺院が建ち並び、静かで落ち着いた雰囲気がある通りとして喜ばれています。 この地点は城下町づくりの際に、測量の基点となったと伝えられる場所です。
  

石灯籠地蔵尊

石灯籠地蔵尊その時の水縄(目盛りをつけた縄で面積を測るために用いたもの)などの用具が埋められていると言われています。

 
430歴史サブタイトル3

 
金森長近公金森長近公は、1524年に美濃(岐阜県)に生まれ、五郎八可近といいました。金森の姓は近江国(滋賀県)守山金ヶ森に一時住んだことから、その地名をとって名づけられたといわれています。18歳の時に織田家に仕え、当時8歳の信長の身のまわりの世話をしました。1555年には、今川義元との合戦で手柄をたて、信長の「長」の字をもらい長近と名を改めました。
 1575年に越前の一向一揆鎮圧の恩賞として、大野郡の3分の2(石高としては約3万5千石)を与えられました。長近は標高約250mの亀山の頂上に越前大野城を築き、ふもとに城下町を建設しました。越前大野城と城下町は400年以上経った現在もなお健在であり、碁盤目状のまちなみは「北陸の小京都」と呼ばれています。

金森長近公2 1586年には、秀吉の命令で攻め落とした飛騨一国を与えられ、高山城(岐阜県高山市)を築き、城下町を建設しました。1600年の関ヶ原の合戦では東軍(徳川軍)に加わり功績を認められ、美濃国上有知(岐阜県美濃市)を与えられ小倉山城を築き、引退してこの城で生活しました。1608年夏、京都伏見の屋敷で85歳の生涯を終えました。
長近公は、どちらかというと優しくまじめな人柄で、戦いを好まず平和を愛していたようです。都市計画に秀でた才を持つだけでなく、茶の道に通じ、教養のある面も持ち合わせており、信長・秀吉・家康と時代の支配者に順応して戦国時代を駆け抜けた勝利者と言えます。
 
 
天守閣からの眺め 長近公は、どちらかというと優しくまじめな人柄で、戦いを好まず平和を愛していたようです。都市計画に秀でた才を持つだけでなく、茶の道に通じ、教養のある面も持ち合わせており、信長・秀吉・家康と時代の支配者に順応して戦国時代を駆け抜けた勝利者と言えます。
 
430歴史サブタイトル2
 人物

 土井利忠公は1811年、江戸に生まれ、8歳で土井家7代を継ぎ、1829年に19歳で藩主として大野へ入ってきました。藩の財政は非常に苦しく、利忠の藩政改革は1842年の「更始の令」によりはじめられ、藩財政の立て直しと、人材登用を柱にしてすすめられました。

 藩の政治や経済の立て直しには、新しい知識を学んだ人材が必要である考えに基づき、1844年、藩校「明倫館」を開設。身分に関わらず誰でも入学できました。
明倫館とならんで藩が力を入れたものに、洋学の研究があります。家臣を江戸・京都・大坂(大阪)方面に送り、西洋医学や砲術などを学ばせ、1856年には洋学館を建て、緒方洪庵の適塾の塾頭伊藤慎蔵を教師に招きました。藩財政が苦しいなか、高価な本を買い入れて資料を充実させ、50名を越える留学生が洋学を学ぶため全国各地から集まりました。
 

平成大野屋 内山七郎右衛門良休・隆佐良隆の兄弟は、利忠公の「更始の令」から始まった藩政改革に尽力し、財政再建・人材育成など各種の事業で成果を上げた人物として有名です。
 良休は、武士でありながら、自ら商いを学び、大野藩のタバコや生糸などの地場産品を売り出して富を蓄えることを提案。1855年以降、越前の各地や大坂(大阪)、箱館(函館)など全国37店舗の藩直営店”大野屋”を開き、流通網を整備しました。今でいうチェーン店の先駆けです。また、銅山の藩営化など経済面での手腕を発揮し、大野藩の多額の借金を返済して藩財政の立て直しに貢献しました。現在、幕末の大野屋の手法と進取の精神に習い、まちなか観光拠点施設「平成大野屋」では、全国に向けて大野市の特産品を広く紹介しています。

旧内山家 弟・隆佐は1855年に幕府が蝦夷地開拓の募集をした際、藩主に応募を提案。洋式帆船”大野丸”に乗って蝦夷地に行き、現地調査や開拓を指揮し、1860年には、北蝦夷地内(現在の樺太)の幕府が許可した土地は大野領となりました。
 1862年、藩主利忠が引退し、自慢の大野丸は2年後に根室で座礁し沈没するなど、不運が続き、1868年に新政府へ許可地を返上しましたが、大野屋だけは着実に伸び、明治に入っても全国に店が広がっていったようです。
 武家屋敷旧内山家には内山家ゆかりの品が展示されています。
 

▲このページのトップへ

参考リンク

 大野市歴史博物館

 越前大野城 (開館時間などの案内)

このページのお問い合わせ先

観光振興課
住所:福井県大野市天神町1-1
電話番号:0779-66-1111内線162
FAX番号:0779-65-8371
メール:kanko@city.fukui-ono.lg.jp
2011年3月30日

アンケート

この内容はお役に立ちましたか?