大火の歴史
大野市に纏 わる大火の歴史
火と人間の関係は、遠い昔から今日に至るまで、さまざまな形で関わり続けてきた。
炊事のため、暖を取るため、明かりを灯すため、さらには車や飛行機を動かすため。
「火の利用」は、われわれの日常生活に欠かせないと同時に、万物をあらゆる形で豊かにしてきたのである。
しかし、その利用方法を誤ったことで、われわれの生活を脅かしてきた事実は歪めない。
大野市の大火の歴史を紐解くと、奥越特有の気候風土が災いした、歴史に残る大火が過去幾度も発生している。
大野の町は、江戸時代中期の元禄から明治時代中期に至る約二百年にわたる間、八度も大火に見舞われている。一千戸内外の大火は、安永四年の太郎兵衛火事をはじめ、明治三十二年までに6度発生しており、その他元禄の時代にも大火が発生した。
度重なる大火を受け、住民たちが打ちひしがれる状況の中、防火対策に本腰を入れるきっかけとなった火災は、明治二十一年四月八日に発生した「大野町明治の大火」であり、町ぐるみの防火に立ち上がった記録に残る日である。
「大野町二度目の大火」が発生した明治三十二年以降には、初代大野町町長 岡気一が、目の当たりにした大火の痛手から抜本的な防火対策を掲げ、道路拡幅による防火線の設定や新築時の瓦ぶき屋根を推奨した財政支援を行い、大野町の復興に尽力している。「大野町明治の大火」は、大野市の「大火記念日」として現在でも継承され、消防総合訓練を通して広く住民に周知されている。
初代大野町町長 岡 気一
火防線(六間通りの消防演習)
大火の歴史パネル
大野藩の役所火事
とき
宝永8年2月4日 午後9時頃(西暦1711年)
損害
角櫓をはじめ家中56軒焼失
内容
大野藩の役所火事で、二代目大野藩主土井利治氏の会所より出火して角櫓、その他侍屋敷56軒を焼失。特に角櫓の再興不能にならしめた。時の会所番人、牧野次兵衛は処罰として解雇された。これが大野火災記録の最初である。
大野藩の役所火事
比丘尼町彦左衛門火事
とき
正徳4年3月5日 午後4時頃(西暦1714年)
損害
焼失家屋、寺院など194棟
内容
比丘尼町彦左衛門より出火。折からの西北の風に煽られみるみるうちに四方へ燃え広がり、寺町(光玖寺、妙典寺、惠光寺、岫慶寺、瑞祥寺)他民家を焼き、春日町、熊野町、二番、三番上町を延焼し、翌6日午前10時頃鎮火した。
比丘尼町彦左衛門火事
太郎兵衛火事
とき
安永4年4月8日 午前7時頃(西暦1775年)
損害
大野城御本丸武器庫をはじめ町にて民家1,075戸、御家中230戸、土蔵280棟、 寺院26寺全焼、死者2名、中野村8割焼失
内容
野口村(現在の二番上)の太郎兵衛から出火。強い南東の風に煽られ丸一昼夜燃え続け、被災者は雨の中たんぼで竹竿に筵を張り 只、唖然として手の付けようがなかった。大野城下町最大の火事となり当時これを太郎兵衛火事と呼んだ。
太郎兵衛火事
吉左ヱ門火事
とき
安永9年3月9日 午前7時頃(西暦1780年)
損害
民家377戸、土蔵1棟、寺院13寺焼失
内容
二番下町東又屋吉左ヱ門が取灰の不始末により出火させた。
大野藩はついに防火対策に本腰を入れ、各町内に風番、立番、水番を交代で立たせ、火災の予防には万全を期したが焼け石に水の如くであったようだ。
吉左ヱ門火事
蓮光寺火事
とき
寛政元年4月17日 午後8時頃(西暦1789年)
損害
中心街民家986棟、御家中一部焼失
内容
寺町蓮光寺から出火したが、大野藩の日誌によると少年又七が面白半分に寺に放火したのが原因で、すぐ逮捕され投獄の後、町内を引廻しの上死罪となった。
蓮光寺火事
長四郎火事
とき
文政5年3月5日 午後5時頃(西暦1822年)
損害
民家785棟全焼
内容
安永4年に続き再度野口村、枝村長四郎より出火し、中野村の中心部を含め町屋敷一面が焼野原となった。大野藩はついに「火魔の地区」として厄払いを命じ、現在の春日町、中野、神明に移転を命じた。
長四郎火事
大根葉火事
とき
文政10年5月19日 午前10時頃(西暦1827年)
損害
城内に飛火し御新宅、矢蔵、御殿をはじめ武家、民家など計1,000余棟を焼失した。
内容
二番上大根葉清七から出火し、またも南東の強風に煽られて、度重なる火災に悲鳴をあげ、藩ではついに一番民家住宅を取壊し、お城の防火用大堤防を築き、木を植え、お城の防備をなした。切捨御免の武士でもさすが火事には参ったと見える。
大根葉火事
大野町明治の大火
とき
明治21年4月8日 午後5時頃(西暦1888年)
損害
民家1,113戸、半焼14戸、空家45戸、土蔵322棟、小学校1棟、治安裁判所1棟、寺院2棟、死者3名、重軽傷者79名
内容
横町の湯屋から出火。名物の巽風に乗って四方に散り本町、二番、三番、六間、七間などの民家を焼失し、大野町最大の火災となった。
大野町役場ではこの日を「大野町大火記念日」として、新しい町づくりに専念した。なお、今日でも4月8日を「消防記念日」としている。
大野町明治の大火
大野町二度目の大火
とき
明治32年6月18日 午後10時頃(西暦1899年)
損害
民家741戸、半焼7戸、土蔵全焼76棟、同半焼4棟、警察署、税務署、郵便電信局 死者1名、行方不明1名、負傷者19名
内容
横町の人力車輓方から出火した火災は大野をたちまち一面火の海にし、猛火は下庄の中野まで及びました。明治天皇から御見舞金として金1,000円、また各地からの見舞金品は旧藩主土井家の1,000円をはじめ、その他より1,750円、米345俵、たくあん97,700本、梅干3石、食塩533俵などの救援があり、現在でいう非常災害救助体制に入って、町民は大変勇気づけられました。
出火原因については諸説あり、一説には夫婦けんかの末、夫の投げた石油ランプがこぼれた油に引火したと伝えられています。二度の災害の痛手は大きく翌33年、町長 岡 気一は町会での結果、経費2万円をかけ六間通り及び石灯籠を防火線として拡幅しました。また新築する者には安い利子で資金を貸し、従来の板葺きから瓦葺き屋根への改葺きを推奨しました。
大野町二度目の大火