再発見 - 悠久の時を経た越前大野城(第11話)
第11話 大野藩の藩校
(写真は大野藩洋学館跡の碑:越前おおの結楽座隣)
明倫館は、大野藩が優秀な人材を育成するために設けた藩校です。大野藩主であった土井利忠が、天保14(1843)年に出した学校創設の令により設けられました。翌年の弘化元(1844)年には、校舎を新築。その際に藩校の名前を「明倫館」と名付けました。場所は、現在の越前おおの結楽座の周辺です。
「明倫」は、中国の思想家「孟子」の「皆人倫を明らかにする所以(ゆえん)なり」という言葉が語源です。明倫には、人として守り、自分の行うべき道を明らかにするという意味があります。当時、全国の各藩では、藩士教育のため藩校を設け、人材育成などに励んでいました。長州藩の「明倫館」や尾張藩の「明倫堂」など、明倫の名が付いた藩校がいくつかありました。
大野藩の明倫館では、武士だけではなく、一般家庭の子どもたちも学ぶことができました。学級は、甲乙丙の3つに分けられ、丙科は13歳以下、乙科は15歳以下、甲科はそれを卒業した人が、朱子学や武術を学んでいました。生徒は、明治維新前には200人以上いたといわれます。
また、大野藩は安政3(1856)年、主に蘭学(オランダ語)を学ぶ洋学館を開設しています。その時に、教師として大坂にあった緒方洪庵の適塾で塾頭を務めた伊藤慎蔵を招きました。このため大野の蘭学研究は盛んになり、九州や四国などから留学する人もいました。藩では、オランダ語の翻訳や専門書の出版などを行うようになりました。
その後は、種痘の実施や北蝦夷(現在のサハリン)探検、大野丸の建造・航海など、先進的な事業をいくつも行いました。