再発見 - 悠久の時を経た越前大野城(第9話)
第9話 秀吉の命で飛騨征伐へ
(写真は岐阜県高山市の長近像)
天正13年(1585年)、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)は、自分に従わない飛騨の三木氏を討つため、隣国の越前大野を治めていた長近公に飛騨征伐を命じました。
長近公は飛騨の各城を攻め落として三木氏を追放。この功績により、秀吉から飛騨を与えられ、大野から飛騨へ転封。高山(現在の岐阜県高山市)で築城を行い、城下町の建設を始めました。
慶長3年(1598年)に秀吉が亡くなると、長近公は徳川家康側に付くようになります。慶長5年(1600年)の関ケ原の戦いでは、家康側の東軍に参加して勝利。その功績により美濃上有知(こうずち)(現在の岐阜県美濃市)1万8千石を加増され、そこで再び築城と城下町の建設を行いました。
長近公は、約6万石の大名となりましたが、晩年は高山を養子の可重(ありしげ)に譲り、自らは上有知(こうずち)の小倉山城の城主となり、そこに住むようになりました。
慶長13年(1608年)、京都の伏見にて85歳で亡くなりました。墓は京都の大徳寺にある金龍院にあります。長近公は、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に仕えた有能な武将でした。茶道に通じ千利休などとも親交を結んだ文化人であり、文武両道に通じた武将でした。