再発見 - 悠久の時を経た越前大野城(第8話)
第8話 地形を生かした水路整備
長近公が行った町割りの特徴の一つに、水路整備があります。南北向きの本町通りから五番通りまでの中央に水路を設け、町屋の生活や防火、消雪の用水としました。水路の水源は、木本扇状地の伏流水で、主に本願清水の水が利用されました。
本願清水の名前の由来は、その昔本願寺派の門徒によって掘り広げられたからだとも、近くに本願寺派の寺があったからだとも伝えられています。江戸時代には「本願寺清水」と呼ばれ、常に清潔に保たれるよう、川にごみを流さないことや牛、馬を洗わないことなどのお達しがたびたび出されました。この水路は、昭和の初めごろまで残っていました。水路の幅は約90センチで、ところどころに水路へ階段状に下る「こうど」といわれるものが設けられていました。
各屋敷の背中合わせの境には、生活排水用の「背割水路」を整備しました。通り中央の水路は、昭和に入ってから道路の両脇へと付け替えられましたが、「背割水路」は今も当時の様子を伝えています。
長近公はその後、高山(岐阜県高山市)と上有知(こうずち)(岐阜県美濃市)で、城下町を造りましたが、それぞれの土地の地理的な特徴を利用して行っています。地下水を利用した水路の整備は、高山や上有知(こうずち)では見られない大野特有のものでした。
(写真は平成大野屋横の背割水路)