再発見 - 悠久の時を経た越前大野城(第7話)
第7話 町割りの概略
写真は石灯籠地蔵尊
金森長近公は、天正3(1575)年に織田信長から大野を与えられると、亀山とその麓に城を造り、城の東側に城下町を造りました。このときに城下町造りの基点としたのが、本町通りと石灯籠小路の角にある石灯籠地蔵尊と伝えられています。
長近公は、城を守る観点から、武士たちを城の近くに住まわせました。町人たちの屋敷地を、武家屋敷地の東側に南北6筋、東西6筋の通りに置き、住まわせました。
武家屋敷と町人屋敷との境になっていたのが芹川用水で、今も結ステーションから平成大野屋の横を流れています。
長近公は南北に通る道の東端と北端、南端に寺を配置しました。寺の移転に掛かった費用の替わりに、境内地の税を免除するなどして移転を進め、長近公の時代に6カ寺が建てられました。また鍛冶職人など特定の商いをする人たちを集め、特権を与えて住まわせることもしました。
城下町が出来上がったころは、住む人も少なかったと思われます。町を建設してから約100年後の天和2(1682)年には、家数641軒、人数2,720人、寺社34との記録が残っており、多くの人が住むようになりました。以後も人口は増え続け、幕末の安政2(1855)年には、家数922軒、人数6,085人となりました。